2018年08月13日

古代人の火の使用の始まりを思う。

今年も仁川でキャンプをした。仁川の流れは子供たちにとって天国なんだろう。カニや小魚を追いかけ、潜り、岩から飛び込む。水しぶきと歓声のるつぼ!保育園がこの川の傍にあったら毎日でもこうかな?と思ったりする。夜のキャンプファイヤーの話の核はやはり火についてであった。思うに「火」の使用は簡単ではなかっただろう。恐ろしい落雷のあと樹木が燃えているのを見てなぜ持って帰る気になったのだろう?古代人にとって雷自身が恐ろしかった、その恐ろしき雷が地上に残したものに近づいたり、まして触るなどは初めはとてもできないはずである。おそらく子供のようないたずら気分で枝などを差し出したら燃え移り狂気したことだろう。しかも『火」を所持しているだけで野獣が近づかず恐れることを知ったことは「大発見」であったろう。石や初期的な武器で身を守ることは簡単ではない。飢えた狼にとって「人」が如何に捕食しやすい生物であるかを彼らは経験上熟知しているので執拗に人間を狙うか、簡単にはあきらめない。だがなんと「火」が燃えているだけで彼らは近づかない。この発見が如何に大きなものであったろうか。だが、その火をいつでも、どこでも熾せるようになる過程はよくわからない。火起こし器への着想はどのようなことがあってのことだろう。
 ただその過程をひつこく考え、工夫するエネルギーは子供や女や高齢者を猛獣の襲来から守りたいとの一念があってのことだろう。ミシンを発明したシンガーは母親の縫物の苦労を軽くしたいとの思いからだと聞いている。そんな話をした後に、もし歩いていて目の不自由な人に出会ったらどうするとたづねたら、ある男の子が手を引いてあげると即座に答えたので驚いてしまった。


posted by ちびくろ保育園 at 10:34| 日記 | 更新情報をチェックする